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紅榴館コラムニスト

僕が散文できる多少の劇情

多和田紘希 : 第四回 野蛮なれ

責任者としては、ここらでザクロカンのことを説明しなきゃあ、いかんと思い立ちました。説明って嫌です。僕だって人の子ですから、そりゃあ君らとおんなじ、できるだけ無口でいたい。落とした小銭を拾うにも、他人の視線が気になり、また神様の悪戯心が気になり、それらを振り払うのにはいちいち勇気が要ります。本当に詰らない勇気。それは一体どこから生まれてどこへ行くのかと自問すれば、頭に浮かんだ「しゃーぼん玉飛んだ」の歌、あんなふうに飛んで消える、自分でも手を振りたくなるような、悲しい勇気でした。誰が言ったか、「勇気を湧かせる一つ一つが絶望である。」

ところで説明しなきゃ。そう、たった今いいこと思いつきました。「シャボン玉たあ、風上にも置けないね。」思いついたら捨て難い。伏線とはいえ、正直これはかなり巧い。(分かりますか、シャボン玉って奴は流れちゃうからこう、どう工夫したって風上に置けないでしょう?これで皆に分かって貰えたかしら。もっと説明しなくちゃ、充分に感心して貰えないかしらうんぬん・・・。)

本筋に戻して、うんぬんとはつまり、説明するということのリスクを説明した箇所ですが、うんぬんうんぬん言っているとせっかくの反射が鈍まる。そんなにも他人に対して疑心暗鬼でいる必要は無く、心地よい自信の無さと言いましょうか、そういうのを見限り、「言わなくてもそこは、ね、ね、ほら分かるでしょう?」なんて日本人のニジリ寄りは、阿吽の像が作られた頃にはとっくに散々だったはずで、何が言いたいかと言うと。ザクロカンだって君らにニジリ寄ってばかりじゃなく、リスクを恐れずきちんとその真意目的を説明をしなきゃって、僕だって美術館なんかに行くと、作品の個々に対する疑心暗鬼が湧きへとへとになる。
そこで一休みして。例えば美術館としてはですよ、作品の隣にでも作者の真意目的を掲示しておけば良いんじゃ無いか、その方がお年寄りにゃ易しいんじゃないかな、と一頻り脱線してみた。懺悔の掲示板はめくってコッソリ覗く式にすれば、そんな醜いもの見たくないという例えば芸術至上主義的な美大生の近眼も、さぞバリアフリーでしょうよ。作者のほうだって、批評家のあとがきに、疑心暗鬼のうち期待するようなことならば、自分で書いてしまえ。

とまぁそんなふうに、もしも真意目的を作品脇に掲示する芸術家がいたならば、少なくとも僕はそのような決断を支持した彼の勇気に、感服しようと思う。またその場で僕と握手し親交するだろう彼の姿、を空想した美大生が「何が芸術的かって、あんなにも清らかなコミュニケーションを生んだ“真意目的の説明”、それ自体ダリよ。」なんて芸術道を転んでくれれば、奴の作品にもきっと感服してやる。作品自体よりも、その真意目的を説明する勇気のほうが心に迫るのなら、芸術はすべからく爆発だ。そんなものもう要らないので、四散して地に帰るべし。もとより遠い遠い未来に芸術がもっと無用な物になれば、こういう野蛮で力ずくな、芸術家ならぬ人間味の爆発した連中が、実際に現れるやもしれん。それまではゴッホの絵だって補助輪みたいなもんだ。

つまりは。ここで連載されるコラムが、波風たてずザクロカンを説明してくれまいかと思いたかったわけですが、もう止めた。代わりに今回の文章の真意目的を、力ずくで掲示することを思いつきました。

「以上の文章を自己分析してみたところ、どうにも調子で濁している部分があり、真意を自ら覆い隠さんとする臆病風いわゆる“劇情”の、吹きに吹きすさんでいる感が否めない。しかしながら筆者自身がこうして頭を下げ、是非とも皆さまに評価して頂きたく思うのは、この調子の良さは勿論のこと、勇気勇気と読み手の嫌悪や批判を撥ねつける盾のような言葉を連ねつつ、今度も散文しなかった多大な怒りや憎しみや、エログロ含む色々な人間味とを、何とかして自然に表現できないものかと思案する筆者の、そうして同じくずうっと思案し続けている読者諸君を代弁せんとする筆者の、文章に費やした時間の最低でも一般的価値である。案ずるなよ君らのことが嫌いなんだからようんぬん。」

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