多和田紘希 : 第一回 ボロボロのジーンズ
2003年6月30日、月曜日をもって、私の愛の対象は「ドラマティックの何らか」であることを愛人に断言しました。すると反抗され、私の歓喜、ユーモア、悲しい涙、勃起を含めてじつは精神と肉体の欲情のすべてが、やはりドラマティックの中にある何らかに向けられることを発見しました。そしてこれはもう綱領です。 私に愛されるには、ごく分かりやすい意味でドラマティックであることです。90年代の半ばからファッション事情に愛の眼差しを向けてきましたが、いい加減ゲンナリです。私だけで無くみながゲンナリしています。デザインという他人の主張を立ち看板のように背負って歩く、サンドイッチマン感覚がお手ごろで無い。アイデンティティーにしどろもどろするファッションの性質は人任せに分業できないナイーブです。 ファッションなぞ止めとけと言いたい。あれはね、開き直ったそれ専門の人が楽しむものです。素人がナカタみたいに開き直るには金が要る、と看破しました。無いんだから専門外の人よ、止めとけ止めとけ。女にモテないことを選ぶ度胸があるなら破れかぶれに個性的であろうとする厭世も現代的でよろしい。 しかしそれは本当にドラマティックでない。ちっとも血生臭くないのです。 あれま、ボロボロのジーンズと題にある。あれは完全に美しい。タイトなボロボロのジーンズがドラマティックで良い。ドラマティックは日常的で必然的であることをその要素とする、と手帳にもう書き込んじゃった。 じつは死亡事故もスポーツもムーランルージュも同じであります。日常が露出を許可した必然、それが血生臭いのです。ところが必然なんてほとんど世に露出しないです。メガネ女やオカッパ男のロマンティックは違う。ジョーイの膝穴の鳥肌ほどにも血生臭くないです。血生臭くなければ全部ダメ、全部インポテンツです。 シルエットが美しいものをボロボロにすれば何でも良いのですが、上着が汚いと貧相で不便です。 清貧のドラマティックはエピタフだけにする、とここで決めましょうよ。若いうちはジーンズが断然適当であります。 次回もドラマティックについてです。